短気は ありもしない短気に とらわれるところから生まれる
<解説>
江戸時代の高僧 ・ 盤珪永琢(ばんけいえいたく) の問答は
禅問答独特の難解さは みじんもない
きわめて禅的な話も具体性があってわかりやすい
(禅という字は 示す偏に単と書く シンプルが第一)
自分の性格に あれこれ悩んでいる人に こんな話がある
ある男が 「私は短気です どうすれば短気な性格をなおせますか」 と聞いた
盤珪 答えて曰く 「さても面白い人じゃ その短気とやらを いま持ち合わせておられるか
あれば ここに出してみなさい なおして進ぜる」 と・・・
形としてありもしない 「短気」 にとらわれ悩んでいた男は 盤珪の一言で悟ったという
有形(物)ならば 相手とともに見定めて手も打てるが 無形(心)なので
あれこれと支援は受けたとしても 究極は 「とらわれない心」 に己が到らないといけない
いつまでも 「うじうじと とらわれるから」 妄想が発生する
この 「とらわれない心」 こそが 禅の根本である
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