何を読むかではなく どう読むかである
<解説>
釈迦が入滅された後 多くの弟子たちが集まって
それぞれが聴聞した釈迦の教えを確認しあったという
弟子たちはさまざまな機会に それぞれ個別に教えを受けたため
一堂が集まり各自の記憶の混乱や矛盾を正しあう必要があったのだ
「如是我聞(にょぜがもん)」 とは 「かくのごとくわれ聞けり」 である
仏教の経典はすべてがこの 「如是我聞」 で始まる
解釈は自由でとまではいかないが 「各自が釈迦の教えを各様に理解する」
にあるのだから それだけ 学びがいがある
中でも禅は自己認識を土台に出発する宗派であるから
「禅の本を何冊読んだか」 ではなく 「どう読んで咀嚼するか」 なのである
一旦 人の胃袋に納まったものが自分に役立つ訳がないから
元にもどって 自分なりに納得いくよう噛みなおす必要がある
本を読んでも著者の考えにとらわれず 新解釈をしてやるぐらいの意気込みで
自分なりの 「如是我聞」 をつくればよい
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