ザルで雨漏りが受けられないと考えるのは とらわれた考えだ
<解説>
鎌倉時代から南北朝時代に 関山慧玄(かんざんえげん) という禅僧がいた
ある大雨の日 本堂に雨漏りがしはじめた
慧玄が 「何か受けるものを持って来い」 と怒鳴った
だが雨漏りがするほどの荒れ寺である 手桶の一つも見つからない
弟子たちは 右往左往するばかりであった
その時 一人の小僧が とっさに近くにあったザルをつかみ駆けつけた
「ばか者め ザルで水が受けられるか!」 と 凡夫ならどなるだろが慧玄はちがった
その小僧をほめ 他の弟子を叱りつけた
なぜか・・・ザルが雨受けの役に立たないことは常識である
他の弟子たちは そんな常識にとらわれて 右往左往していたのである
でも いくら右往左往したところで雨受けが出来るわけない
それなら 右往左往しないで ノホホンとしているか
小僧のようにザルをもって駆けつけたほうがよい
つまり 常識にとらわれない そこが小僧のいいところである
常識や理屈にとらわれずに行動する
これこそが禅者の行いだと 慧玄は言いたかったのであろう
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