出世のため 家族のためと わたしたちは
「何かのために」生きようとする 結局は 何のためか
一心に語録を読みふける修行者・道元に 一人の禅僧が問う
「語録を見るは 何の用(ため)ぞ」「古人の行いを知るため」
「何の用(ため)ぞ」「郷里に帰り 人を導くためだ」
「何の用(ため)ぞ」「人々を利益(りやく)するためだ」
「畢竟(ひっきょう)して(結局のところ)何の用(ため)ぞ」
ここまで追い詰められ 道元はことばを失ってしまう
以後 道元は語録を開かず 只管打坐(しかんたざ)=坐禅に徹した
「ためにする」ことの 何とちっぽけで 空しいことか