悟りを開いた人間とそうでない人間などと言うつもりはないが
やはり世の中には二種類の人間がいるような気がする
たとえば 何かまずい出来事が起こったとき
あれこれ弁明して自分の非を認めない人間
自分が至らないからだと自分を責める人間の二種類がある
心理学では前者を他罰的 後者を自罰的というそうだが
自分の非を認めようとしない人間ほど始末におえないものはない
自分の愚かさに気づかない限り その愚かさから自分を救うことはできないからだ
言ってもむだな弁解や怨みごとを並べ立てる「愚痴」も
もともとは仏教でいう「三毒(さんどく)」(貪・瞋・痴)のひとつであり
心おろかなことを指す 人間だれしも愚かであることからまぬがれはしないが
愚かを愚かと気づいて そこから脱出しようとするところに
人生の意味があるのではないだろうか
釈尊の弟子のチューラ・パンダカは もともと知能が低く
簡単な教えの文句さえ覚えられなかった
しかし 彼は自分の愚かを知り それを悲しんだ
すると釈尊は彼に白布を与え 人々の履物を拭かせた
しだいに黒くなっていく白布を見て パンダカは
布と同じに人の心も汚れてゆくことを悟る
自分の愚かを知る人間にこそ 道は開けるのである