数々の奇行で知られる一休宗純(いっきゅうそうじゅん)禅師には
いくつかの有名なエピソードが残されている
ある年の元旦 竿の先に骸骨をくくりつけ
“めでたい めでたい”といって京の町をかつぎ回ったというのも 良く知られた一休噺である
なにがめでたいのか? 「みなされ ここに二つの穴がある ここに昔は目玉があったのじゃが
目玉は飛び出てしもうた 目が出た目が出た めでたいのう」
こう言って一休禅師は京の町を練り歩いたいうのだが
もちろん 決して駄洒落を言っているのではない
一休禅師は 骸骨が肉をつけているのが人間であるということを言いたかったのだ
あの人は美人だ 偉いとか言ってみても 肉を取り去れば みな同じ骸骨ではないか
骸骨に美人も偉いもなかろう と一休禅師は言いたかったにちがいない
彼流にいえば どんな美人でもへもすればくそもするのである
ところが わたしたちは骸骨がつけているほうばかりを気にして
わたしは美人だとか あの人は頭が悪いとか評価しがちである
人間の価値などは いずれは消えてなくなる肉などで決められるものではない
一休禅師の人間像は 外見はちがっていても人間はみな同じだということにあるようだ