お 経 の 話U

 
<参考文献>
 
                        * 「般若心経現代語訳」 東福寺派本願寺 ・ 稲栄和尚 (S10年)
 
                        * 「一切は空 ・ 般若心経」 天竜寺管長 ・ 平田精耕著 : 集英社
 
                        * 「般若心経」 妙心寺派龍源寺住職 ・ 松原哲明著 : 三修社
 
                        * 「般若心経」 ビギナーの為 ・ 遠藤誠著 : 現代書館
 
                        * 「こだわりを捨てる ・ 般若心経」 ひろさちや著 : 中央公論社
 
 
 
 
 

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 [21]   乃 至  無 老 死  亦  無 老 死 尽
 
【経文】
 
乃至 無老死 亦 無老死尽
 
【読み方】
 
ナイシ ムロウシ ヤク ムロウシジン
 
【現代語訳】
 
乃至は 老死もなく また 老死の尽きることもなし
 
 世間で四苦八苦と言うが 仏教用語である
 
 釈迦説法の 「四苦」 とは 生まれながらに持つ苦しみ
 
   ・ この世に生まれることで 「生きる苦」
 
   ・ 年をとって 「老いる苦」
 
   ・ 不摂生で 「病む苦」
 
   ・ 寿命が来る 「死の苦」 合わせて 「四苦」
 
 風が吹くと波が立つ : これは「生れる」 である
 
 風が収まり静かになる : これは 「滅す」 である
 
 人間とは かくの如し 何かの縁でこの世に生を受け何かの縁でフッと滅してゆく
 
 生も死もいろいろな縁が結びついて起こるに過ぎず
 
 本来の自分(佛心) は生まれも 死滅もない
 
 
<解説> 今回のキーワード 「十二因縁」
 
この 「無明」 から 「老死」 に至るまでの言葉は じつは 「十二支縁起」 という
 
難しい仏陀の教えによっているのである  この思想を 「十二因縁」 という
 
即ち 「無明」 と 「老死」 の間に 「十の因縁」 が省略されている
 
「乃至」 という語で表現している
 
@無明:この世は無常であるとの本質をつかみ取らない見方生き方を無明という
 
A行:その無明から 「行」 が生じる いい行いと悪い行い
 
B識:悪行の底にある執着心から 「識」 が生ずる
 
C名色:識の次に 「名」(心) と 「色」(肉体) が形成される
 
D六入:「名色」 が形成されると 「六入」(六根:眼耳鼻舌身意) が生じる
 
E触:次には 「色声香味触法」 の全てをまとめた広い意味の 「触」
 
F受:次は 「受想行識」 の 「受」 のことで 「善し悪し・好き嫌い」 の好悪の判断
 
G愛:そこには 「愛」 が生ずる この愛は仏典では 「根本的な欲望」 のこと
 
H取:次には 「取」 の現象となる ほしい物にしがみつく執着のこと
 
I有:執着心により 「有」 が生じ行動をする
 
    行動が原因で多くの結果を引き起こす
 
J生:以上の「受・愛・取・有」により人生が形成される よってこれを 「生」 という
 
K老死:そして生きているから 必ず老い 必ず死ぬ それを老死という
 
死ぬとどうなるか 「無明」 の世界にもどる 「行」 を経て 「識」 によりどこかに宿る
 
それが牛か犬か鶏の卵か地獄界かもしれない これを無限に繰り返す
 
この十二の語が何を表現しているか
 
そしてここには 正 ・ 逆二つの順路があるという
 
まず第一は 全ての生き物が 上は天界から下は地獄界まで
 
輪廻転生(六道輪廻)にあり 六道のどこかに生まれどこかに死に
 
またどこかに生まれ変わり また死ぬ繰り返しの根源
 
即ち 生まれ変わり 死に変わっていく原因のことである
 
その第二は あらゆる生き物 特に人間の苦の根源は何なのかを
 
突き詰めていった系列という側面を持っている
 
その第一の意味においては @の 「無明」 から順次Kの 「老死」 までに至り
 
第二の意味においては Kの 「老死」 から逆順で@の 「無明」 に至ることになる
 
 
 
さて 「老死」 即ち老いる死ぬとは苦しいことである そして死は苦の極致である
 
なぜ死ぬか 老いるからで もっとも若くして死ぬ人もいるが
 
若くて病死する人の肉体は すでに老いている肉体である
 
あるいは老いずに自殺する人 交通事故で死ぬ人もいる
 
しかし仏教によれば すべての人間の命分(寿命)は その人の過去世界からの
 
行為の積み重ねにより 生まれながらにして決まっているといわれるから
 
そのような非業の死をとげる人たちにおいては その寿命が尽きたのであり
 
寿命のその年数ですでに 老いていたことになる 
 
しからば人はなぜ老いるのか それは生きているからである
 
即ち 「生(ショウ)」 : 「老」 の原因が 「生(ショウ)」 であるという考え方は
 
非常に大事であると思う
 
即ち人間が生きている限り 老いたり ・ 病気することは
 
まことに当たり前のことであり 「生」=「死」 であり 「死=「生」 ということである
 
言い換えると 生きているのに病気にならない 80歳でも老いない
 
100歳をはるかに越えても死なない というのは もはや怪物的と言うほかない
 
人間が病み 老いて 死んで行くのは まことに自然なことなのである
 
この 「生きている限り 時には病み いつかは必ず老い そして死んでゆくのだ」
 
という鉄則を腹の底にガッチリしまいこんで生きることが
 
即ちまた 病と老と死の苦しみから我々を救ってくれる最大の妙薬となる
 
しからば 我々は なぜ生きているのか
 
それはこれまでの行動により その結果として今の生がある
 
即ち 「有」 → 「取」 → 「愛」 → 「受」 の逆順となる
 
これを一口で言うと 我々の現在の悩み苦しみの根源を これでもかこれでもかと
 
追求していくと 結局は 「無明」 に至るということである
 
この十二因縁を般若心経では 「無明乃至老死」 の六文字で片付けている
 
しかも 「無明もなし ・ 乃至 ・ 老死もない」 十二因縁がないと言う
 
恐ろしいことである 
 
「ない」 と言われ 「ない」 と執着するのがこれまた間違いである
 
般若心経は人間が一つのことに凝り固まることを否定している
 
「因」 と 「縁」 に固まるな!自在であれ!
 
 
 
                                  2006年12月28日
 
 
 



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