あらゆるものが 自己であることに気づけ
<解説>
他人の身になって考える---ということを とかくわたしたちは 「同情する」 といった
浅はかな意味ととりちがえているようだ
禅では 自他を全く分けず 他人どころか 鳥も花も 木石さえ全て自分の一部と見るのである
ただし なかなかそこまでの心境に至るのはむずかしい
花を花 鳥を鳥と認めている段階で すでにわたしたちはそれらを
自己の外にある対象物としかとらえていないわけだ
どうすれば この対立的な見方を脱け出すことができるか それをことばで伝えられぬから困る
百丈禅師は 師の馬祖から 「あれは何だ」 と問われた 野鴨が飛び立ったのだ
「野鴨です」 と彼は答えた 「どこへ飛んで行ったのだ」 という師の問いに
百丈は 「あちらの方へ行きました」 と答える
答えるやいなや 百丈は鼻をひねりあげられた 「痛いっ」 思わず声をあげると
師は 「どこへも飛んで行きはしないじゃないか」 そこで百丈は はっと悟るのだ
禅者の悟りはいつも唐突だ 説明されてわかるものではない
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