1句で 「衆生本来仏なり」=「皆が仏」 と宣言したが
この時に到り 自分が今 極楽浄土の真っ只中にあり
行き着く所 全てが感激の絶頂となり
そこで初めて 自分も仏であると気付いて自覚する
その姿や状態が 「この身即ち仏なり」 である
死んだら誰でも仏になれる これは住職が保証する
生きて仏の心が持ててこそ いい人生が送れるから
こんな幸せなことはないのである
その姿こそが この世の極楽浄土や! と説く
<42〜44まとめ>
心が無であればどうなるか?
部屋には窓がありますね そこからは 太陽や月の光が入り
花や紅葉も舞い込み すがすがしい風も入る
時には 歓迎できない雨や雪やみぞれも降り込む
閉ざしさえしなければ 「窓」 は全てを受け入れる 「口」 である
壁が無い 「無の状態」 で 外の全てを受け入れる人の六根(目耳鼻舌身心)
に 壁が 「有る」 のか 「無い」 のか 「有」 か 「無」 か
この六根が 「無」 であり 「清浄」 であることが人間の正しさである
・ 意 (こころ) が無であり 清浄となれば 「自性即ち無性」 とわかり
・ 「無念の念を念」 とする心境が開け
・ 「四智円明の月」 爽やかに照り 冴えることになるならば
・ 「このとき何をか求めん」やである
・ 一点の妄想も無く 一念の執着も無く 一切が消えうせて 「寂滅現前」 し
・ そこに 「当處即ち蓮華國」 と 一切万象が輝きわたり
・ 本来有する仏の光 (第1句 : 衆生本来仏なり) が照りわたり
・ 第44句 「この身即ち佛なり」 となってくるのであります
浄土真宗の開祖 親鸞上人は 「全てが私を生かす為に動いてくれる」 と
感謝合掌し 全てのものに限りない愛情が湧き 「我は人のためにある」 とし
「感激的な生活」 を人々に説いたという
まさに相手を感激と幸福に入らしめることが宗教である
現代では 「人は我のためにある」 との錯覚が不幸を生んでいる
限りない人類愛に燃えて奉仕できてこそ 互いの心に 「尊敬の念」 が生れ
自然に 「合掌」 ができる そんな世の中を取り戻しましょう
2006年2月20日
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