お 経 の 話U

 
<参考文献>
 
                        * 「般若心経現代語訳」 東福寺派本願寺 ・ 稲栄和尚 (S10年)
 
                        * 「一切は空 ・ 般若心経」 天竜寺管長 ・ 平田精耕著 : 集英社
 
                        * 「般若心経」 妙心寺派龍源寺住職 ・ 松原哲明著 : 三修社
 
                        * 「般若心経」 ビギナーの為 ・ 遠藤誠著 : 現代書館
 
                        * 「こだわりを捨てる ・ 般若心経」 ひろさちや著 : 中央公論社
 
 
 
 
 

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 [9]   受 想 行 識  亦 復  如 是
 
【経文】
 
受 想 行 識  亦復 如是
 
【読み方】
 
ジュソウギョウシキ ヤクブ ニョゼ
 
【現代語訳】
 
受想行識も 亦 (マ) た復 (マ) た 是 (カク) の如し
 
 感じたり ・ 知ったり ・ 意欲したり ・ 判断したりする精神の働きも
 
 これまた 「空」 である
 
 
<解説>  今回のキーワード 「色即是空」
 
このように物質と精神の全てが 「空」 なるあり方をしているから
 
生じたり滅したりすることなく きれい 汚いもなく 増えもせず減りもしない
 
したがって 「空」 の中には肉体もなく 感受作用 ・ 表象作用 ・ 意思作用 ・
 
認識作用の精神活動もなく 眼ゲン ・ 耳ニ ・ 鼻ビ ・ 舌ゼツ ・ 身シン ・ 意イ(こころ)
 
の六つの感覚器官もないし  この六つの対象となる 「色シキ (いろとかたち) ・
 
声ショウ ・ 香コウ ・ 味ミ ・ 触ソク ・ 法ホウ (概念)」 だってない
 
さて「色即是空」は世間で大変有名な言葉ですが 7句も8句も同じ事を言っている
 
色というのは自分の外側にある一切のもので 
 
一切の現象界というものは もともとなにもない
 
考えてみれば 我々は何もないところからでてきて 何もないところへ
 
帰っていくわけだから 本当に何もない
 
このようなことが 「色不異空」(色は空に異ならない)という言葉からも理解できる
 
人間の心は まさにそのとおりで 皆さんの中に坐禅の経験がある方もいる
 
でしょうが その最中には いろいろなことを思ったでしょう
 
無心になろうとすればするほど いろいろなことが出てきて時間が過ぎてしまう
 
あの有名な白隠和尚さえも 無心になろうと一心に坐禅するが邪心が出てきて
 
止まらない  それでも続けると 不思議にフッと何かを思う その瞬間スーッと
 
それまでの考えがどこかに消えてしまう また次に 取り留めない考えがでてくる
 
出たり消えたり繰り返す 完全に忘れていた昔のことを ふと思い出したり
 
どこからともなく出ては どこへともなく消えていく
 
カチンと向こうで音がすると パッとそちらへ心がいく
 
コーンとこっちで音がすれば こっちへ心がいく
 
電話が鳴れば 心が電話の方へいく
 
「百思千想」 と言って 百や千の思いが頭の中を よぎっては過ぎ
 
過ぎては去っていく
 
人間の心は 変転自在にどうにでもなっていく
 
「心は無限であり 物は限定である」 という
 
坐禅を繰り返していると 心そのものが どこからともなくでてきて
 
どこへともなく 消えていく
 
ただカチンという音があって その音が人の耳を通して 自分に伝わり
 
そこに(自分なりの)想念が起こる この瞬間にパッと無から有が生じるのである
 
仏教で空とか無といっても 何もない空っぽ (エンプティ) をいうのではない
 
バラバラにしたら何もないが 識得した一つ一つのものが集まると
 
何もないどころか いろんな動きが起こってくる
 
だから 何にも有るものが 何にもないものとなり
 
何にもないものが 何にもあるものとなる
 
“無が有で 有が無である” ということを 仏教ではいうわけである
 
“色が空で 空が色である” とは こういう風なことをいうわけである
 
 
ここで もう少し別な視点で説明してみよう
 
インドの逸話を紹介 : 「牛を百頭にした金持ちは真の幸せか?」
 
九十九頭の牛を持つ金持ちがいた あと一頭で切りのいい百頭になると考え
 
この金持ちは わざとオンボロ服で貧乏人を装い 遠くにいる幼馴染を訪ねる
 
その幼馴染は 一頭の牛を持って細々と暮らしていた
 
金持ちは そこで 「お前はいいなぁ・・・ちゃんと牛を持っている わが家は貧しい
 
なにもない 妻や子供は飢えに泣いている 幼馴染のよしみで助けてくれ
 
お恵みをくれないか・・・」 と懇願した
 
九十九頭の牛がいるので もちろん嘘である
 
そこで貧しい男はいう
 
「君とボクは幼馴染なのに 君が困っているのを知らなかったのは 友人として
 
恥ずかしい 妻と二人で一所懸命働けば何とかなるから この一頭の牛を君に
 
あげよう 子供さんにミルクを飲ませてあげなさい」 と 彼は牛を 「布施」 した
 
一頭の牛を引いて喜んで帰った金持ちは 「百頭になったぞ」 と
 
その晩寝たにちがいない  貧しい男も 友達に布施ができたので喜んで寝た
 
さて どちらの喜びが本物でしょうか? 「布施」 の喜びの方が本物でしょう
 
ところが金持ちの喜びは たった一晩にすぎない 
 
なぜなら彼は 翌日には 「さて次は百五十頭を目指すぞ!」 そう思うに違いない
 
百頭になった喜びは飛んでしまい 次の目標に向けて いらいら ガツガツ
 
あくせくと 苦しい毎日が際限のない欲望のままに続く
 
人間らしい一生を考えると金持ちの男の方が貧しいといえる
 
では 金持ちは絶対に幸福になれないのか? 
 
そんなことはない この男も幸福になれる どうすればいいか 簡単である
 
人のために 「布施」 をすればいいのである
 
「自分はお陰で 九十九頭も持てたから その中から何頭かを困る人に布施
 
しよう」 と思ったとき たちまち自分が (心豊かな) 真の金持ちになれる
 
実は金持ちか貧乏人かの物差しは曖昧である
 
絶対的な物差しはなく全て相対的である
 
ものには物差しがなく ものを見る人間が都合で物差しを持っているに過ぎない
 
物差しを持たないことが 「空」 である 
 
金持ちか貧乏人かは 物質 「色」 の相対比較に過ぎない
 
 
 
                                   2006年8月15日
 
 
 
 
 



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