お 経 の 話U

 
<参考文献>
 
                        * 「般若心経現代語訳」 東福寺派本願寺 ・ 稲栄和尚 (S10年)
 
                        * 「一切は空 ・ 般若心経」 天竜寺管長 ・ 平田精耕著 : 集英社
 
                        * 「般若心経」 妙心寺派龍源寺住職 ・ 松原哲明著 : 三修社
 
                        * 「般若心経」 ビギナーの為 ・ 遠藤誠著 : 現代書館
 
                        * 「こだわりを捨てる ・ 般若心経」 ひろさちや著 : 中央公論社
 
 
 
 
 

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 [14]   不 増  不 減
 
【経文】
 
不増 不減
 
【読み方】
 
フゾウ フゲン
 
【現代語訳】
 
不増にして不減なり
 
 増えもせず減りもしないのです
 
 
<解説> 今回のキーワード 「永遠のいのち」
 
どうですか? おわかりになりますか? 今はおわかりにならなくていいです
 
何故かって?叱られている舎利子:舎利子は釈迦十大弟子の一人 「智慧第一」
 
とされ 時には釈迦に代わって説法をしたが 大乗仏教から観ると
 
釈迦の弟子たちは教えを誤解して小乗仏教をつくった ― とされ
 
大乗仏教の仏典の随所で叱られている
 
ともかく 出家して彼岸に泳いで渡ろうとした小乗仏教は 釈迦の教えを誤解した
 
さて 不生不滅とでてきますが これは生じもしないし滅しもしないという意味である
 
「惜しい ・ 欲しい ・ かわいい」 などという八万四千の想い 
 
それは人間の心からでるが そういう人間体験の心というものを もとを質すと
 
何も惜しいとか欲しいとかいう心ではない
 
全ての存在 「山川草木」 が またこのとおりである
 
高い山 低い川も何億年後にはやがて 高い山も低くなり 山や川はなくなる
 
これを仏教では 「生じたものは必ず滅する」 という 生じなければ滅しようがない
 
仏教は因果の法を尊ぶので 「生じたものは必ず滅する」 というのである
 
人生六十年七十年 仮にこの世に生きて 仮に死ぬだけであって
 
本当の自分は死なない
 
仏のおいのちというのは この不生不滅の生命 「永遠のいのち」 である
 
本当の仏のおいのちというのは この世に出てこない 
 
だから汚れ垢がつくこともなく 浄らかであるということもない
 
大体美しいものを尊び醜いところを捨てるというのが芸術である
 
それはこの世のことであって 本当に般若経典でいうところの仏の世界は
 
汚いもきれいも越えている そこを強いて清浄という 
 
六根清浄の清浄である あるいは増すこともなく減ることもない
 
今まで仏性が四つあって悟りを開いたからといって六つになったとか
 
悟れないから仏性が減っているなどというものではない
 
もともと我々の本来の姿というのは みな空であり 発見したから真実が増えたとか
 
発見しないから真実が減ったとかは考えられない
 
あるいは 悟りを開いたから極楽浄土に行けるとか 凡夫だから行けないとか
 
仏さまが極楽浄土から出てきたとか 出てこないとかではない
 
本来この現世が極楽浄土なのだと お釈迦さまは教えた
 
この諸法は空の相 (すがた) をもっている 空の相をもっているということは
 
相を持っていないということである
 
ちょうど鏡のようなもので 色がないからあらゆる色を映す
 
鏡そのものの色は無色である
 
まさに人間の心というものは 鏡のように本来的に無色である
 
何もないところでいやな事件に出会うと 「あっ嫌だな」 と思う
 
何もないところでうれしいことに出会うと 飛び上がって喜ぶ
 
このように喜怒哀楽の心がおこるがその源を探っていけば 何もない
 
そこが色即是空であり 空即是色といわれるところである
 
その心の元の何もないところのことを 「諸法空相」 という
 
これは大変難しいことではあるが 坐禅をしているとわかる
 
一週間も坐ってみたら 心に何も思わないときが訪れる
 
しかし何も思わないといっても死んでいるのではない 確かにしっかりと生きている
 
遠くで犬がキャンと鳴けばキャンと聞こえ 全身でキャンと聞くのである
 
あちらで鳥がチュンと鳴くとチュンと聞こえる  あっ! 鳥がチュン・・・と聞こえ
 
思いは馳せるがその後は 何も残らない またすぐに元の状態に戻る
 
実に不思議なもので何もないところに 「縁」 に従って
 
想いというものは次つぎに湧いてくる
 
そういう心の成り立ちのようなものを中心に 般若心経は話を進める
 
そこから般若心経の教えが出てくる
 
釈迦は出家できない大勢の人を救いたいと考えておられたから 一般在家の人
 
此の岸に生きる人間 娑婆にある人間をそのままで救うには
 
どうすればいいでしょうか・・・? 何かいい方法はありますか?
 
その方法が 「般若波羅蜜」 であると説くのである
 
すでに述べたように正しくは 「般若波羅蜜多」 で 「彼岸に渡ること」 である
 
しかし この言葉には別に 「完成(到達する)」 といった意味もある
 
だから 「般若波羅蜜」 は 「智慧でもって彼岸に渡ること」 「智慧の完成」 という
 
二つの意味がある
 
彼岸は仏の国である その仏の国に智慧でもって到達しようということは
 
ほとけの智慧を完成させることでもある
 
したがって “般若波羅蜜” を 「ほとけの智慧の完成」 と理解しておこう
 
何も無理して彼岸に渡ることはない 裸になり財産も妻子も捨てて出家してしか
 
彼岸に渡れないのであれば彼岸に渡らずともよい この娑婆に住んでいたらいい
 
しかし彼岸の智慧 仏の智慧を完成させたい
 
その仏の智慧で娑婆世界を眺めるならきっとすばらしい生き方が見つかるだろう
 
般若心経は そう教えている
 
 
                            2006年10月5日 ・ 達磨忌
 
 
 



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